内木文英 語録
初代校長 内木文英先生は、浦安の地に「東海大学附属高等学校」が開校した意味を「かってこの地は海であった。その海が埋めたてられ陸地に変化し、今ここに学校が建てられた。これは価値ある変化である。我々も価値ある変化をしなければならない。」と語られました。
Vol.1 かつて、この地は海であった
入学式・開校式にあたって、一言だけ申しあげておきたい。新入生はもちろん今まで中学生であったわけだから、これから新しい高校生になるわけであります。そして学校も又、新しい高等学校がきょうこの地に開校するわけです。校舎も新しい、先生方も新しい。今度新しく先生になった方もおりますし、ほかで先生をやってこられた方もおりますけれども、新しい学校をはじめようとするわけであります。すべてが新しいわけであります。新しいということはどういうことであるのか、考えてみなければいけないと思います。
かつて、といいますか、そんなに遠い昔でない前に、この地は海であった。かつて、この我々がこうして立っているこの地は海であった。現在それが、こうして、きちんと陸地になって、そこで我々は開校式と入学式をむかえています。海であったものが陸地に変化したということであります。これはひとつの変化であります。かつて海であったこの地に、建物ができ、新しい学校が生まれた。今までになかったことがそこに生まれた。これは変化であります。新しいということは変化であるといえます。(中略)
この浦安の地の埋立てに参加したたくさんの人たち、何千人か何万人か何十万人か、延にすると何百万になるかもしれませんが、その人たちがずいぶん長い年月をかけて、土を運んでこの陸地を作りあげた。今まで海であった所に陸地を創りあげた。これは価値ある変化であろうと思うのです。そこには人間の力の結集があったということです。
高等学校がここに建ちました。たいへん立派な校舎であります。立派な高等学校に、これから我々が創っていかなければならないわけですが、校舎はすばらしいものです。
三月の半ばすぎでしたか、ここで落成式が行われまして、私はその時にも非常に感動したのでありますが、この校舎を造った人たちの心が、そこにこもっているような、そんな感じがしました。校舎のことはおれたちにまかせておけ、教育はあなたたちにまかせる、しっかりたのみます、そういう気持ちがひしひしと伝わってくるような、そういう感動におそわれたのです。その落成式の日にです。
きょうここで入学式・開校式を開いて、そこに坐って総長のお話をうかがいながら、この陸地を創った何千人何万人の人たちが、この地に立派な町ができるであろう、そして学校もできるであろう、立派な学校ができればいいなあ、と思いながら働いていたのではないか、その人たちも、価値ある変化をのぞんでいたであろう、そう考えていたわけであります。(後略)
(前、東海大学付属浦安高等学校校長)
(同校開校式入学式告辞 昭和50年4月18日)
Vol.2 私と文章
はじめ私の文章のかげに母親がいた。母が私の才能をどこでどう感じとったのか、それは今だにわからないが、兄に対して勉強を強要しながら、私に対しては文章を書くことを命じた。事あるたびに原稿用紙をつきつけて、文章で表現することを命ずるのだった。
幼い私にとって、原稿用紙のマス目を、鉛筆で埋めていくことは、たいへんな作業であった。途中で投げ出したくなるようなこともあったが、おしまいまで書き終らなければ許されなかった。書き終って母の所へ持って行くと、母は相好をくずして、私の書いたものに手を加えていった。遠慮会釈なく引きちぎり、書き加え、すっかり別の作品にして返してくれた。
そしてそれを清書しろと命ずるのである。清書してできあがっても私の心は晴れない。自分のものではないからだ。しかし思いかえしてみて、そのことが少しも不愉快でないのは不思議なことだ。母が私の書いたものに立ち向っていくその姿に、心ひかれていたに違いない。
小学生の頃、そうして書かれた作品によって私はたくさん賞状をもらい、メダルをもらった。私は実感として自分がもらったのだという感慨はなかった。しかし母の手の加わったそれらの作品は、今の私にとってはこの上なくなつかしいものなのである。作品も賞状もメダルも、戦災で焼かれて今は残っていない。
母は私の14才の時死んでいる。私は自由になった筈である。その頃からむやみに徹夜して、たくさんの原稿を書いていった。どのくらい書いたかわからないが、何万という枚数であったと思う。私は作家になったつもりでいた。その頃書いたいくつかのものが、活字にならずに残っている。読みかえしてみるとひどいものばかりである。やたらと気負っていて、しかも見せびらかしの多い作品である。文章もまるで借り物なのだ。
その得意の鼻をへし折ってくれたのが古谷綱武先生であった。TBSのテレビで解説を担当している古谷綱正氏の実兄で、横光利一論で世に出た評論家である。私は21才になっていた。
「おまえみたいに下手くそな文章を書くやつをはじめてみた」
何が作家だ。作家になろうなんてとんでもない。そういわんばかりの口ぶりであった。リルケの「若き詩人への手紙」を読ませ、ほんとうに書きたくなるまで何も書くな、と言うのである。私はそれでもいくつか書いて、古谷先生の家に通った。一年あまり経って、一つの作品が書けて持っていくと、 「文章は下手だが、技術は訓練をつめば何とかなる。問題は態度だ。これは人がらにかかわることだ。おまえにはどこかいい所がある。書いてもいいよ」と言われた。
杉並区天沼の古谷先生の家から、国電阿佐ヶ谷駅まで、私は涙をぼろぼろこぼしながら歩いた。おれには何かいいものがあるんだ。何とかそいつを、一生懸命やって表現しよう。ちくしょうめ。負けるものか。どんなことがあってもやっつけてやるぞ。そう思っていた。
それから30年経った。ずいぶん長い間歩いたはずだが、道はなおはるかに遠いと感ずるのである。
Vol.3へVol.3 同窓会メンバーへのメッセージ
内木前校長から同窓会メンバーのみなさんへメッセージをいただきました。
平成15年3月6日に行われた歴代同窓会会長懇親会の時に収録したものです。
音声が聞きずらい個所がありますが、ご了承ください。
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