浦安ヒストリー

昭和53年度年間より、当時の教務主任(前校長)の児玉正先生の執筆「昭和53年度を終るにあたって」より
附属から附属浦安へ、附属浦安高等学校のプロローグや渋谷からの移転の事情や移転直後の様子をご紹介します。

  • History 1 東海大学附属高等学校の渋谷時代 附属浦安高等学校の前身である附属高等学校の移転事情
  • History 2 浦安町の歴史と移転経緯 浦安町への移転経緯と町の歴史
  • History 3 浦安校舎建築 校舎建築エピソード
  • History 4 附属から附属浦安へ 「かってこの地は海であった。」附属浦安高等学校のスタート
  • History 5 この4年を振り返って 昭和53年、附属浦安がスタートして4年

History 1 東海大学附属高等学校の渋谷時代 附属浦安高等学校の前身である附属高等学校の移転事情

1956年代々木校舎全景
中央は1号館、手前右の建物の場所に付属高校が建つ

昭和53年度は、本校が渋谷から浦安に移転して初めての卒業生を送り出した次年度、つまり1サイクルを終って再出発をするという意味で、非常に大事な年であった。 この1年間を振り返ってみようとするわけだが、「年鑑」への執筆は今回が初めてでもあるので、渋谷からの移転の事情や移転直後の様子までさかのぼって話を進めていきたいと思う。

昭和30年、東海大学は諸般の事情で発祥の地清水市三保から渋谷区富ヶ谷の地に移転し、「東海大学附属高等学校」を併設することになった。

ここに本校の歴史が始まるわけだけだが、実際に生徒募集が行なわれたのは翌31年度からで、50名の新入生が入学したのは昭和31年4月であった。
東海大学附属高等学校創立のいきさつについては、「千鳥」12号(創立20周年記念特集号)に詳しく述べてあるのでそれを読んでほしい。

創設期、先生方や生徒達が学校建設に向って精1杯の努力を傾むけたであろうことは、創立3年目の昭和33年度の入試で競争率2・5倍になったことでも伺える。
昭和37年から1学年3クラス編成が5クラス編成となり、翌38年度の入試では、戦後の第1次ベビーブームもあって、募集定員200名に対し、応募者2230名と10・6倍の競争率になった。

ついで昭和39年から1学年のクラス編成も8クラスとなり、この約10年間に本校の教育の成果は着実に世の人々に高く評価されるようになった。

1959年付属高校校舎

こうした中で、東海大学附属高等学校は常に大きな問題に悩んでいた。それは校地の狭いことであった。創立当時は、校地約3000坪の中に大学生が100名から200名、附属高校生が約200名おり、建物も1号館だけ、あるいはこの1号館と入学校舎と称する2号館があるくらいであったから、青春のエネルギーをぷっつけるのに満足な面積ではなかったにせよ校庭らしいものを有していた。しかし、大学、高校の発展にともなって、新しい校舎の建築が必要となり、3号館(附属高等学校として初めての独立校舎であった。現在望星高等学校)が昭和34年3月に、4号館が昭和35年7月に完成するに至っては、この代々木のキャンパスも校舎だけで埋ってしまったのである。

先に述べたⅩ字校舎が建築されたとき(昭和32年)すでに運動場はなくなり、体育の授業は校地の外側をマラソンしたり、また駆け足で約15分くらいのところにある渋谷区営の大山グラウンドを借用したりしながら進められた。

「青春をぶっつける運動場がほしい!」「運動場をどうにかしてやりたい!」という生徒や教職員の気持ちは、大学本部にも良く解っていた。

しかし、高級住宅街を擁するこの代々木の台では、隣接する土地を校地や運動場として買収することは不可能としか考えられなかった。本校の沿革史を見るとき、この狭い校地、運動場のない悩みを少しでも解消しようとした大学本部の努力が、切々と伝わってくる。

昭和33年3月 附属高等学校新校舎完成(現附属望星高等学校校舎)
昭和33年5月 相模原グラウンド完成(現附属相模高等学校)
昭和4年4月 附属高等学校新校舎完成(代々木校舎5号館)
昭和44年6月 伊勢原グラウンド完成(現東海大学病院)

浦安に移る前の付属高校(現望星高校)

浦安に移転するまでの約20年間に、新校舎に移転すること2回また運動場を2ヶ所に持ったことになっている。2回の新校舎への移転は、校地の狭さによるものではあったが、その都度教育施設や設備は数段と充実していった。しかし、運動場については2ヶ所とも日常の体育の授業やクラブ活動で使用できる所ではなかった。

昭和40年4月に完成した新校舎は、代々木のキャンパスに隣接する土地に、建築された。地下2階、地上3階建て、すぐ増築されて普通教室20余、各実験室、図書室、柔剣道場などができた。後に教室や生徒ホールと称する談話室もできた。こうして着々と教育環境が整えられはしたものの、運動場や校庭らしいものを持つことはできなかった。

体育の授業は、校舎の屋上か大学キャンパスの狭い中庭、そして柔剣道場で行なった。種目も制限され、バレー、バスケットはコンクリートの上での授業。マット運動は剣道場。鉄棒やなわとびなど。

今考えれば思い切り運動ができた、といえる環境ではなかったが、その中で体育の先生方は必死に授業の工夫をされた。

この春卒業する3年生達が、体育館前やグラウンドでなわとびしているのを見て、当時のことをなつかしく思い出した。このなわとびの進度表には渋谷時代の工夫が生きている。

このような平常の体育を少しでも改善しようと昭和50年から夏期教室が始った。当時湘南校舎は、校舎群の建築で広大なキャンパスに槌音が響いていたが、現在のようにうっそうと茂った樹木は見られなかった。まさに東海砂漠。しかも炎天下の7月末。バレー、ラグビー、ソフトボール、水泳など、広いグラウンドやプールで思う存分体を鍛え、建学の精神を体得しようと努めた。

また、伊勢原のグランドが完成してからは学期1回、2、3クラスずつ朝からバスを連ねて伊勢原グランドまで出かけ、数時間の体育の授業を行なって学校へ帰って来るということも試みられた。

しかし、これには大変な時間のロスと費用を要し、長続きはしなかった。 創立以来、運動会、体育祭を専用のグラウンドで実施できるようになったのは、昭和44年の伊勢原グランドでの体育祭からであった。

昭和35年から相模原のグラウンドで運動会が開催されたのであるが、当初からこの地には大学の教養部があり、さらに昭和38年からは附属相模高等学校の校地になってしまった。伊勢原のグラウンドも専用とは言え、準備や生徒の集合に時間がかかるために、昭和47年まで使用し、その後は学校の近くの代々木公園内にある織田フィールドを借用することになった。したがって、いつの年の運動会、体育祭もぶっつけ本番を余儀なくされた。当日雨が降れば中止。先生方も生徒達と1緒になって雨雲をにらみつけ涙をこえたものであった。

さて、運動部の活動も大変であった。野球部、ラグビー部(後にはアメリカンフットボール部)などは、練習場確保のために連日練習試合を組もうと必死で相手校をさがした。相手校が見つからなければ、満足に走ることもできない猫の額ほどの校内で、体をぶつけながら練習した。

バレー部員やバスケット部員はコンクリート上での練習で、いつも膝や肘にすり傷を負っていた。
渋谷時代の校舎は、現在の体育館の中にちょうど2棟入る勘定になる。この小さな校舎内に、多いときは約1200名の生徒が在籍していた。

大学当局の教育環境の改善努力とは別に、こうした校内での努力もなされながら、外に向っては常時移転の候補地が求められていた。多摩川の河川敷、多摩ニュータウンなど数えあげれば切りがない。

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History 2 浦安町の歴史と移転経緯 浦安町への移転経緯と町の歴史

浦安は千葉開府とほぼ同じ歴史を持つというから、それは約8百年にもなろう。昭和30年代の初めまでは、東京湾の向うに雄大な富士を遠望するのどかな漁村であった。ただ境川付近だけは朝夕の漁船の出入りでにぎわっていたものと思われる。「宵越しの金は持たぬ」というキップの良さや人情の厚い土地柄の漁師町「浦安」が大きな変化を始めた原因は東京湾の汚染にあるといえよう。かっては豊富に水揚げされていたあさりやはまぐりが、海水の汚れでめっきり漁れなくなった。のりの養殖も年毎にその被害が大きくなってきた。このことは漁民にとっては致命的ともいえる問題であった。

昭和32年頃から、京葉臨海工業地帯造成事業の1貫として、浦安沖を埋め立てる計画が持ち上がった。当時、埋め立て地に工場が林立する川崎市へ町の代表者が出向いていろいろと調査をした。すでに大気汚染問題が起っていたからである。調査の結果、重工業や化学工業の誘致はしない。代わりに鉄鋼流通センターの設立、アメリカのディズニーランドに匹敵する大遊園地を誘置し、更にグリーンベルト地帯を造る構想がまとまった。

昭和37年、1部の漁民が漁業権を放棄した。そして昭和39年、第1期工事として685ヘクタールの海が埋め立てられることになった。

第2期埋め立てが完成すると浦安町の面積は旧浦安町の4倍になり、昭和60年には人口16万5千人〔昭和53年現在約4万3千人)の1大都市に変貌する計画である。

昭和44年、埋め立て工事に伴って、地下鉄東西線が開通した。もともと東西線の開通は、総武線の混雑緩和が目的であったのだが、それまで陸の孤島とまで言われた浦安は、都心まで20分という距離になった。当然ペットタウンとしての要素が強くなった。

この計画の中で最も重要とされる問題の1つに学校建設があった。小学校18、中学校9、高等学校3、のあわせて30校の建設が必要とされている。

千葉県下には私立高校が少ない。特に工場誘致のこともあって地元民の子弟を教育する工業高校を誘致しようと考えていた。最初、町は日本大学系へ話を持っていった。

それが東海大学へとつながり、東海大学、浦安町、千葉県のそれぞれの事情から、本校が渋谷から浦安への移転する接点が生じたのである。

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History 3 浦安校舎建築 校舎建築エピソード

東海大学と地元との話がまとまり東海大学は附属高等学校を移転させる17、○○○坪の校地が手に入り、浦安町は待望の高等学校誘致が決まったのである。

昭和48年、大学本部は3井建設に学校建設のための設計を依頼した。

設計を引き受けた3井建設は、十数人からなるプロジェクトチームを編成した。埋め立て地という悪条件の中で、どのように校舎群を建築していくか慎重な研究が進められた。地盤調査の結果、支持層らしいものは地下60mまで杭を打ち込まなくてはならないことが判明した。かといってこの支持層まで杭を打ち込むことは大変な作業であり、費用も膨大なものとなる。また、杭打ちが成功しても、地盤そのものも沈下するわけだから、年月が経つにつれて建物が浮き上った格好になる。そこで、フローティング工法というものが取り入れられることになった。

フローティング工法とは、多数の杭を打ってその上に地中梁をのせ、建物の重さを地中梁に受け、均等に力を杭に伝えて不等沈下を防ぐというものである。

結果として地下にピットができるため、ちょうど大地にコンクリートの船を浮かばせた格好になる。地盤の沈下と共に建物も沈下させ、不等沈下を防ぐというものである。更に昭和39年の新潟地震のとき、埋め立て地の建物が、廻りの土が流出したことで倒れたこともあって建物のまわり8メートルに渡って地盤改良(パイブロフローテーション)を施すことにした。以上のような工事方法の基本方針から建物の形や高さもおのずから決まってくる。できるだけ正方形に近い形で高さも制限された。

こうして、現在のような校舎群の配置と校舎の形、大きさなどが決定されたのである。

昭和49年6月、松前総長をはじめとする学園関係者、千葉県など地元関係者、工事にたずさわる3井建設の関係者など多数が参列する中で、第1期工事の地鎮祭が行なわれた。

私が初めて、この校地を見たのは、第1期工事の基礎工事が進むその年の9月23日であった。秋雨が降りしきる中を化学の鈴木光之先生と2人で、今の体育館あたりから見たように思う。雨のせいもあろうが、校地の南側の境界線あたり霞んで見えた。思わず「広いなあ!」と感嘆の声が口をついて出た。校地の境界には、緑色の金綱のフェンスが張りめぐらしてあり、廻りにはなにもない野原で、鉄鋼団地まで真すぐに見透せた。

基礎工事として1、2号館に打ち込まれた杭は約2千本にも及び、7、8階建てのビルに相当する。また、建築が進む間中、学園本部建設課の先生方と3井建設のプロジェクトチーム、現場で施工にあたっている人々が、毎週検討会議をもち、研究に研究を重ね、慎重の上にも慎重に工事を進めていった。

校舎建築にあたって、充分なる研究を重ねる1方で、教育設備についても慎重に検討された。前に述べたように、地盤の問題から建物の改築は非常に難しい。将来、新しい教育設備を備えるための工事も困難になってくる。そこで、最新の教育設備をいま施しておく必要があるし、将来の改築にそなえられるような準備がなされなければならない。また、現在は必要に迫られていない特別教室も、将来必要とあるならばプランの中に入れておかなくてはいけない。こうして、特別教室をはじめとする設備が計画され、また、音楽室や地学実験室などもできることになった。その他、将来のスチーム暖房用の天井裏配管もできている。

昭和5年3月15日、第1期工事として2号館、2号館、そして1周250メートルの陸上競技場が完成した。更に9月には両翼91メートル、センター120メートルの野球場ができあがった。また、3号館は、49年の12月に着工、50年10月に完成した。

こうした校舎建築の費用は、1、2号館が6億5千万円、3号館3億2千万円、陸上競技場と野球場が合わせて8千5百万円、その他5千万円と、ここまで総工費11億1千万円の巨費にのぼった。

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History 4 附属から附属浦安へ 「かってこの地は海であった。」附属浦安高等学校のスタート

1991~1992年頃の浦安高等学校

これより前、東海大学附属高等学校は、渋谷での生徒募集を停止し、在校生はこの地で卒業を迎えさせることにし、新入生は浦安で募集することにした。

昭和50年2月、浦安中学校を借用して入学試験が実施された。募集定員240名、応募者589名。寒い朝であった。浦安中学校の寒暖計は氷点下7度を示していた。合格発表は郵送によるものであった。

開校の準備が少し遅れて、開校、入学式が行なわれたのは、桜も葉桜になってしまった4月18日。前日までの雨は上ったものの風の強い日であった。1号館前に大きなテントが張られ、その中での入学式である。(今年卒業する3年生の入学式まで2年間テントでの入学式となった。)強風でテントがパタパタと音をたてる。緊張した顔の新入生214名とその父母達が、新しい学校への大きな期待を持って式に臨んでいた。

松前総長は式辞の中で、移転のいきさつを述べられたあと、「このキャンパスは東海大学の建学の精神を体得する場にふさわしいものである」ことを前おきして、建学の精神について1つ1つ話をされた。
内木校長は告辞の中で「かってこの地は海であった。その海が埋めたてられ陸地に変化し、今ここに学校が建てられた。これは価値ある変化である。我々も価値ある変化をしなければならない。」と熱っぽい話をされた。

このとき、お2人の先生方の胸の中には、附属高等学校創立以来、運動場を求めて苦悩された日々のことが去来していたのではなかったかと拝察したし、また、喜びもひとしおであったろうと思う。

こうして、東海大学附属高等学校は、新生の東海大学附属浦安高等学校としてスタートしたのである。

新学期まもない頃であった。職員室に入ると4、5人の先生方がグラウンドを見おろしながらにこにこしておられた。私も1緒にグラウンドを見た。在校生皆んなが入学頭初に教わった集団行動の練習の場面である。

指導は柴田先生と竹内真先生。体形を変えるたびに誰かが間違える。それを職員室から先生方がにこにこした顔で見ておられたわけだ。私はこの光景を見たとき、全く新しい感動を覚えた。「新しい感動」といったのは、今までに経験のない感動であるからである。

教員となって十数年の間、グラウンドで行なわれている体育の授業を見たことがなかったからである。運動場があるということは、こういうことか。言葉では言い表わせないために、「こういうこと」という表現になったが、いかにも学校らしい光景と職員室の雰囲気であった。この学校らしさをこのときまで私自身が知らなかったのである。

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History 5 この4年を振り返って 昭和53年、附属浦安がスタートして4年

学校の移転というのは大変なことである。本校が経験した過去の2度の移転は、同じキャンパス内かすぐ近くの新校舎への移転であった。今回は学校名も地域社会も違った移転であったから、前の2回の移転とは異質なものであり先生方にも大きな不安があった。それに、都内で手狭になった学校が、都外に移転してうまくいかなくなった事例をいくつか聞いていた。千葉県という地域社会の様子も、浦安という土地柄もよく解らなかった。不安はますます高まっていた。埋め立て地の真ん中にポツンと学校だけがあり、浦安駅からの交通の便も悪い。全てが新しいことであり、不安の材料ばかりがあった。

しかし、教育の現場をあずかる教師にとって、広い校地と運動場があり、整った教育施設をもった学校であることは素晴しいことであった。その上に渋谷で培った20年の伝統がある。教職員と生徒達、それに父母達の力が1つになって新しい学校づくりが始まった。 あれからもう4年が過ぎようとしている。

昭和53年度を振り返りながら、またその前の3年間をオーバーラップさせてみようと思う。 まず行事関係から振り返ることにする。

今年度行なった行事のほとんどは、移転した年から行なわれて来たものであるが、これだけの行事を移転直後から計画し実施できたのは、やはり渋谷時代の伝統の上に成り立ったということであり、また先生方、生徒諸君、そして父母の方々の協力があったからだと思う。しかも満足のいく結果を得たことは喜ばしい。

体育祭は、第1回の50年度から大変な盛り上りであった。これは体育祭に限らないが、実行委員を中心とする生徒諸君の献身的な準備があった。そして200余名の生徒数でありながら、生徒数に匹敵する父母の参加があり、それが今年度まで引き継がれて来ている。さらに今年度は、実行委員会の自主的な運営、言い換えるならば、自立への方向付けができつつあることを意味しているだけに嬉しいことである。

もう1つの大きな行事は建学祭であるが、第3回を迎えて、より1層の充実があったと思う。建学祭は50年度には実施できなかった。それは発足したばかりの生徒会で、しかも1年生だけであったことを思えば止むを得なかったことであろう。だが、当時の若い生徒会の執行部が、自分達の手で何かをやらなくてはいけないと、在校生全員の作品を持ち寄って作品展を開き、これが次年度の第1回建学祭を生んだことを忘れてはならないと思う。

文化祭(建学祭)に対して、生徒諸君達の間に種々の意見があることは知っている。しかし廻りの学校はどうであれ、本校は本校独自の文化祭を模索して、本校の文化的実力を向上させなくてはならないと思う。その意味で学校から外に向って本校の文化的レベルを誇示できるようになりたいと思うし、そうすることが本校の実力を向上させることにもなろう。

その他の行事についても生徒諸君達の積極的参加と協力があって、実にスムースに進行し成果を上げたと思う。今年度は特に、先に述べた自立への方向に向って企画、運営された行事が多かったことを喜びたいし、このことが来年度以降に生かされることを期待したい。

さて、本年度の学校としての目標には、「学力の向上」 「規律ある生活度態の育成」「自主活動の育成」があった。このうち、「自主活動の育成」は行事に見る限り満足のいく結果を得たと考えている。そこで他の2つについて述べたい。
まず学力の向上という問題である。校内の成績から見ると、1般的には満足できるものであったと思う。平均点や各教科の得点度数分布、あるいは個人の全教科平均点などから判断する限りでは先のような結論が得られよう。この原稿を書いているところで3年生の学年としての成績が出た。全体の平均点が66・5点である。成績上位者(平均点80点以上)の者が42名もいて先生方の表情も明るい。1、2学期の成績からすると、1、2年生の場合は3年生より少し悪いかも知れない。しかし、ほぼ同じ程度の結果が出てくるものと期待をしている。

もう少し詳しく分析していくと悲観的材料が出て来る。まず各学年共学習に打ち込んでいる者とそうでない者との差が出て来ていることを憂慮している。学習に対して前向きに取り組んでいない者、学校へは勉強するために来るんだという意識の弱い者が、学期が進むにつれて多くなっていることを心配している。入学したときからこの学校は、学習をする場であることを強調した。別の言い方をすれば、本校は「建学の精神」に基き、その実現をめざす場である。この生徒達が早く本来の姿に戻ってほしいと願っている。

次に学園実力テストや推薦入学試験の結果から見ると、校内の成績ほどは実力がついていないという結論を出さざるを得ない。これは我々教師にとっては非常に悲しいことである。授業内容や程度は他の学校と同じである。もちろん、本校は大学受験のための指導はしていないから、受験校と称する学校との比較をする必要はない。少なくとも、東海大学の先生方と1緒になって授業内容を検討し、プログラムをつくって授業を進めているのであるから、授業内容の理解ができれば東海大学へ進学して充分やっていけるだけの学力がつけられる。この2つの試験もその程度のものであった。それが振るわなかった。分析が不充分であるからその原因について述べることはさしひかえるが、少なくとも生徒諸君1人1人が自分の学習意欲や学習意識、あるいは毎日の生活を振り返って、より実力がつけられる努力をしてほしいと思う。もちろん、先生方も懸命に研究して来年度にそなえるつもりである。

もう1つの問題「規律ある生活度態の育成」について考えてみようと思う。
昨年度、全学年の出席率が98%を割って、先生方は大きなショックを受けた。渋谷時代に1度も経験がなかったからである。今年度は、渋谷時代にできたことが浦安でできないことはないという考えで、「遅刻、欠席をなくす運動」をしようと指導重点項目にあげた。昨年度の冬はインフルエンザの流行で、ちょうどマラソン大会が行なわれた1月末の調査で、風邪の症状をもつ者が在籍者数の半分を超えていた。昨年度の出席の低下は多分にこの影響を受けていた。

今年度は、1学期から積極的に指導する体制を取ったつもりであった。また、昨年のようなイソフルエンザの流行も見られなかった。それでも今のところ98%は確保できそうにない。最終的な結果を今出すことはできないが、少なくとも昨年より良くなっているというデータも感触もない。誠に残念に思う。ご家庭へも協力を要請した。協力してくださったと思う。先生方もできるだけの努力をした。しかし、この問題も学力の向上の問題と同じように、生徒諸君自身がどうにかしなければいけない問題なのである。「欠席をしない」「遅刻をしない」ということは社会生活を営むための基本的生活習慣として身につけなくてはならないことである。来年度からこの意識をもって欠席・遅刻のない学校生活を送ってくれることを期待したいと思う。

本稿の最初に断り書きをつけてペンを取ったときには、もう少し違った構想を持っていた。それが、ペンを進めるにつれて崩れて来た部分が多くなったと反省している。特に「5、昭和53年度」の部分では、生徒諸君に期待していることを強く書くはめになった。

この「年鑑」は、渋谷時代に1つの文集として発行されていた「千鳥」をベースにして新しく発行されるようになった。これと同じようなことが本校には沢山ある。渋谷で創立された本校は、渋谷時代の20数年間の歴史と伝統の上に成り立っていて、その上に新しい力を養い、さらに素晴しい学校に発展させなくてはならない。そのためには、生徒諸君に移転の事情を知らせる必要があると判断し、年鑑としてはふさわしくないと思える部分もあえて書いたのである。この昭和53年度については、もう少し深く掘り下げてみたかったのではあるが……。

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